あねみの日記

行雲流水.

ブログを書こうと考えたきっかけ

今日はなぜブログを書こうと考えたのかを記したいと思う。

実は高校生時代からブログを書いてはやめ書いてはやめを繰り返してきた。その中で感じていたことの一つに、自分は考えをまとめるのが(正確には言語化するのが)苦手であるということがある。これをいつかは克服したいと考えていたが何も成長を実感しないままに歳を重ねてしまった。

いけない。思えば何もかもがそうであった。まとまらない書類。散らかったPC上のファイル、手を付け始めたはいいものの投げだしたプロジェクト(そんなものあるかな)、収拾もつかず頭の中に降ってわいては雲散霧消する数々の思索、洗濯機に放り込まれない脱いだ服。(本当のところが同であるかはさておいて、)物事には何事も始まりと終わりがあるようにしておくのが実際にはよいのであるが、自分はどうにもそれが上手くできないたちであるということが分かった。いや、世の中の多くの人は実際きちんと手じまいや整理整頓をしているのかはわからないが、とりあえず今の自分が上手くいっていなくて、その原因の一つがこの片づけられない病というか捨てられない病というかにあると思う。病でもないかもしれないが。最近は捨てられない病は克服しつつある(気がする)。ここまで書いて、散らかしている自分は、捨てられない病と片付けられない病の二つにおぼれていることに気づいた。

捨てられない病の原因は分かっている。昔子供のころに読んだ絵本「ちいさなくれよん」が原因だ。小さい頃の自分はその本にいたく感動して鉛筆を鉛筆削りに掛けられるギリギリまで使っていたりした。いまだに小学校時代の鉛筆を捨てられずにいるのだからまぁ、そういうものなのだろう。でもこれは画期的なアイデアで解決できることが分かった。教えてくれた今のパートナーには感謝している。

片付けられない病の方は深刻だ。この側面は自身の「理想主義」「優しさ」をつかさどるパーソナリティーとも関係している。いつかこの辺の考えも整理出来たらいいなとは考えている。しかしながら結局は自分の甘さにかかわる部分であるから、そこを何とかする必要がある。この「甘さ」にもいろいろな種類があるのだけれども、これらをどう克服したらよいのか自分にはまだわかっていない。またこの「甘さ」は父親から遺伝しており、自分が父親のようになりたくはない(部分がある)ことを考えてもどうにかして克服する必要があると考えている。

しかしながら考えの雲散霧消に対してはこのブログで対処することができると考えた。自分の学習した内容と思索の整理をこのブログでは行っていきたいと考えている。もう脳みその年齢的なピークを迎えた自分はここから衰退していく自身の脳みそと戦う必要がある。さもなければ、、、、、、

抽象的なことを考えるのは好きだし、得意だとも思っている一方で、それらは何の実にもならないことが多い。そして父はそんなことばっかり話しているうちにおかしなことを言うようになってしまった。人生に残された時間は少ない。本当に必要なものだけを残した方が良いところまで来ている。そんなことはわかっているのだ。ただある人の言葉が脳裏をよぎる。「無駄なことにこそ価値があるんですよ」この言葉は自分の心の情緒的な部分をくすぐる。無駄なものを無駄だと切り捨てられるほどに自分は強くない。あるいは無駄を徹底的に排除した先に空っぽの器しかないのではないかと恐れているところもある。「恐怖」も自身の性格を表しているのだろうな。これはでも置き換えれば「慎重」という長所に生かせる部分であるからよくよく考えておこう。